大学生の会話とハイコンテクスト文化

こないだtwitterで覗き見したリア充のとある会話に驚愕した。

A「焼肉食いたい」
B「@A あるで」
A「@B まじ」
 ↓
AとB、焼肉を食いに行く!(写真がアップされる)

な、なんで!?
「あるで」「まじ」で成り立つ会話、なにこれ!?

他にもいろんなとこで話題になるが、
大学生の会話は一般に「やばい」「まじ」「ウェーイ」などの数単語で成り立つ、と言われている。

 

実はこの『大学生の会話にありがちなことwww』と揶揄されるような会話には、日本文化の真髄が隠されているのである。

日本語は、曖昧表現にあふれている。
曖昧表現(明瞭でない表現)は、主に以下の三つに分類される。

(1)主語・述語の省略

 例えば小学校の漢字テストでも、よく見られた光景だと思うが
 ・赤貝の煮付けを(た)べる
 のように、明確な主語がない漢字練習文がよくあったと思う。このように、日本語では主語や述語が不明確でも意味が伝わるのである。

(2)曖昧接続詞

 ・石が置いてあり、電車は急停止した。(曖昧接続詞)
 ・石が置いてあったため、電車は急停止した。(論理接続詞)
 例えば英語では、接続詞はほとんどが論理接続詞であり(becauseとかthereforeとか)、前後の意味関係が明確である。

(3)表現の抽象度
 表現そのものが抽象的である場合。
 「がんばれ!」「なにを?」みたいな。

 

このように曖昧な表現で意思疎通しあう日本人の背景には、コミュニケーションの基盤となるコンテクストの共有を絶対前提とする「ハイコンテクスト文化」がある。

つまり、冒頭の会話に戻すと

A「(私は)焼肉食いたい(から誰か行きませんか?)
B「@A
(私はあなたと焼肉を食べてもよいという思いが)あるで」
A「@B
(あなたがそう言ってくれるのであれば、私もあなたと焼肉を食べたいという思いが)まじ(でありますよ)

ということになる。
日本語は抽象度が非常に高く、無意識的に省略が多用されているのである。

 

有名な『枕草子』などの古典から、現代の学生の会話にまで多用されている「省略」という表現技法。
それは、「言葉にせずとも伝わる」というような、言外のものを共有しているという、太宰治がよく用いたと評されるある種メタ的な表現なのである。

だから、ニッチな人々による「あるあるネタ」に視点をおいた『アメトーーク』は、私は日本文化の特性を捉えた非常によい目の付け所だと思っている。

 

このようなハイコンテクスト文化はこういった「共通感覚」を惹起させやすいという特長がある一方で、それによる弊害の存在も否定出来ない。

高度な背景知識の共有を前提とする会話は、共通感覚を持たない者には排他的である。
「空気が読めない」と排斥されるのは、そのせいである。日本人はまわりに合わせることを強いられている。
またそのために、かつての鎖国・外国人排斥運動や、共同体的な性質の強い日本的労働体制(終身雇用・年功序列によって一度属したコミュニティを離れにくい)が日本の特徴となっているのかもしれない。

日本のハイコンテクスト文化はよそ者を受け入れ難く、また、一度共同体から逸脱してしまうと、もう戻れない。

おそらく人生のレールが云々言っているのは日本人の特徴である。
レールという比喩表現には「レールの上は安定して走行できるが、一度踏み外してしまうとなかなかレールの上には戻れない」といった意味が隠れている。
30歳過ぎてからの転職は、実力よりも「年功序列的な扱いが面倒」という理由で断られるのが日本である。会社という共同体に途中から入れてもらえない、ピラミッドの入口は一階にしかないのが日本である。日本にピラミッドはないけど。

 

今回は大学生の意味不明な会話から日本社会の性質について論じた非常に格式高い内容であった。
この「ハイコンテクスト文化論」は、これから「笑い」や「感動」といった感情のメカニズムに敷衍して論じていきたいと考えている。笑いや感動の根底には、「共通感覚」が存在しているのである。