幸福の質と、オトナ帝国

子どもには、社会や哲学を知らないこそ享受できる幸福がある。

不思議なことに、人は成長に伴って、だれだれは自分の友達に嫌われているから付き合わないだとか、だれだれはリア充だから仲良くしておいたほうがいいだとか、そういった汚いスクールカースト的な利己的な考えをするようになって、仲良くなる前から無意識的に友達を選ぶようになる。

一方で、子どもは無心に友達を作ることができる。
社会や哲学を知らないことは、本当に貴重な幸福なのだ。
無知だからこそ子どもは全力で遊ぶことができるし、そしてこの幸せは永遠に続くと思っている。

ところが、大人になるにつれそういうたぐいの幸福は得られなくなってしまう。
大人になって、社会的人間としての責任感が生じてくるためだ。
あるいは、子供のころは無限に思えた世界の限界と社会の汚さを見て、虚無感みたいなものを感じるためかもしれない。
このように、社会を知って、人は子供の頃の幸福を永遠に享受することができなくなる。
子どものころの純粋な幸福は永遠に得られなくなる。

ただ、大人は幸せじゃないってわけじゃなく、幸福の質が変わってくるだけなのだ。
社会的人間にしか享受できない幸福がある。
異性や子どもを愛する幸福、真実を探求する学問的幸福、社会的名声を得る幸福など……

ところがこれらの幸福は、子どもの幸福とは本質的に異なるものであることは間違いない。
大人になると社会人としての責任が常に付きまとうし、純粋だった子どものころよりも幸せかと言われると、みんな首をかしげるんじゃないか。俺だけかな?


こう考えると、もしかしたら子ども時代の幸福が人の生きるうえで最大の快楽で、
クレしんの『オトナ帝国』で描かれていたように、子どもに戻りたいというのは実は人間の本能的な欲求なのかもしれない。

ところが、『オトナ帝国』では、しんのすけたちの頑張りによって人々は未来を志向しはじめ、世界は救われる。

タワーの頂上で息も絶え絶えのしんのすけの訴えがあって、テレビを通してそれを見ていたオトナたちが感動して、やっぱ未来を生きよう! っていう展開になる。
しんのすけがオトナたちを未来志向にさせる論理としては、おそらく、さっき書いたように幸福の質が変化していくことを示すことだったのだろう。

つまり、しんのすけの名ゼリフである、

「オラ、父ちゃんや母ちゃんやひまわりやシロともっと一緒にいたいから。ケンカしたり、頭に来たりしても一緒がいいから。あと、オラ、大人になりたいから、大人になって、お姉さんみたいな綺麗なお姉さんといっぱいお付き合いしたいから!」

という言葉には、

「社会を知らない純粋な子どもの幸福もいいけれど、家族を持ったり異性とお付き合いしたりするオトナの幸福もかけがえのないものだゾ」

というメッセージが込められていたのだ。きっと

でも、僕にはしんのすけの言葉にはそこまで説得力があったとは言えないのだ。
実はこの映画では結局のところ、人々の過去礼賛主義を真に論破することができていないのだと思う。
ストーリー上はオトナ帝国が負けた形になったが、過去の思い出に安住することと不透明で不安な未来に生きること、どちらが本当に幸せなのかという結論は出せていない。

しんのすけが未来を志向する理由はもちろんわかる、五歳児の彼には過去がないからだ。
ところが大人たちにとってみれば、本当はあのまま子どもに戻って純粋な幸せを享受することのほうがよいのではないか、とも思えてしまう。

こういうふうに考えるようになったのは実に最近のことだ。
今までに数十回と『オトナ帝国』を見て、今やセリフを暗唱できるくらいになったけれど、最初は物語の展開に飲まれて、しんのすけの言うように未来の未知の幸せを追い求めていくことが真に美しいと思っていた。

ところが最近になって、幸せについて本気出して考えてみてから、そして自分が「オトナ」側に移行してからは、子どものころの社会も哲学も知らない幸せこそ人生最大の幸福であって、戻れるならずっとそこにいたほうが幸せなんじゃないかと思い始めたのだ。


もしかしたら、このことを本当に理解できるのは、人の親になってからなのかもしれない、と思っている。
子どもができると自分の過去の思い出なんてどうでもよくなるくらいに、子どもの未来のために生きたくなるのかもしれない。
自分より下の世代が自分の世代より大切になるのかもしれない。

『オトナ帝国』公開から十年以上が経過したが、また十数年後に今度は自分が親になってから再び『オトナ帝国』を見れば、感じることも変わるのかもしれない。