本能的な安心と、ゆるゆり

なぜ俺は今「ゆるゆり」にハマっているのか。
というかなぜ「ゆるゆり」を見ていると落ち着くのか。

ゆるゆり」はご存知の通り、女子中学生たちのゆるゆるとした日常、ときには百合を描いたアニメだ。
別に俺は百合が好きなわけじゃない。
じゃあ何がいいのか。

考えてみると、女子中学生たちが仲良く偽りなく過ごす空間の居心地がいいからじゃないかと思った。
アニメやドラマは現実と違って表層的だ。だから裏に淀む暗黒な人間関係なんてものは関係ない。
そして我々は安心して彼女たちの日常を眺めることができるのである。
そう、安心。この要素が大切なのだ。


茂木健一郎が『脳と仮想』で、
「新奇性を本能的に求めるのは、母性のような安心が必要条件だ」
みたいなことを言っていた。抜粋じゃないよ

動物は本能的に未知の世界を探索したがるけれど、そのためには今いる環境に絶対的な信頼がないといけない。
例えば、何が出てくるかわからないお化け屋敷ではずんずん前に進んでいくことは難しいけれど、
一方でテレビゲームの中なら、自分は絶対に死なないとわかっているからこそ、マリオはクッパに挑んで行けるのだ。

つまり、自分を取り囲む環境に安住できることは、動物の本能的な意味で重要なのだ。

だからこそ、女子中学生の友情を盲目的に信頼できる日常系アニメは、見ていて心地いい。のだと思う


そしてこれは、過去にすがるオトナたちにも通ずるところがある。

なぜ過去にすがるのか、というと、過去は自分が安住できていた場所だからだ。
未来は動的で、過去は静的なもの。未来の友達は裏切るかもしれないけれど、過去の友達は絶対に裏切らない。
だから安心できる。そして、安心できていた昔に戻りたくなる。

こう考えると前回のオトナ帝国の話にもつながってくる。
過去は本能的な安心を引き出すからこそ心の琴線に触れるのではないか。


今回はゆるゆりを見ていたら人の本能について考えていたという高尚なお話である!