ある意味「最も歴史的」だった、カスカベボーイズ

クレしん映画史上最大の変革となったのは、2003年のカスカベボーイズ以降である。
これは主に、メインスタッフ陣の降板という構造的な理由によるもの。
しかしそれに伴って、やはり製作者が変わると作品の質も変化する。それが今のクレしんムービーに残るものになっている。
作画自体は2002年ヤキニクロードあたりから変わったんだなあってのが見ればわかるけど、ストーリー構成やギャグ、あるいはゲスト声優の扱いなど作品の本質的な部分は、この2003年で一気に違うものになった。
さらにここ数年で言えばマーケティングもずいぶん進化した。最近の興行収入が増えているのも頷ける。それがクレしんファンにとって良いものかどうかはおいといて……

込み入った話で始まったが、ここで2003年「カスカベボーイズ」の立ち位置を紹介しよう。

クレしん映画では、伝説的な監督の原さんという人がいる。彼は「オトナ帝国」「戦国大合戦」とか、世間的にクレしん映画、たかが子供向け映画じゃない」ってことを知らしめた偉大な人物だ。僕も彼を心から尊敬している。
原さんの映画がオトナにもウケたのは、それがただ子どもを楽しませるだけでなく、人間の本質に至る、心の琴線に触れる作品を作ったからだ。「オトナ帝国」では、人間みな持っている普遍的な過去礼賛主義的思考、「戦国大合戦」では、権力という絶対的なものに対する恋愛というまた別の絶対的なものの対立、あるいは「暗黒タマタマ」では、子どもが妹という弱き者に対して上に立つことを覚える小さな社会的成長、などなど……そういった、大人もみな共感できる人間の精微な感情を、クレヨンしんちゃんという子供向けの単純で記号的な登場人物で描写するのが、とても上手な方だった。

そんな原さんが降板したのが2001年。代わりにバトンを受け取ったのが、水島さんだった。
彼は今では「イカ娘」とかを手がけた日本有数のアニメーター。カスカベボーイズ限りでシンエイ動画を退社してしまったけど、彼は原政権下で絵コンテや脚本まで共同で手がけるなど、原さんと二人三脚でクレしんの全盛期を支えてきた偉大な人物だ。
だから、原さんが「戦国大合戦」で降板すると決まったとき、後任は水島さん以外考えられなかったのだ。

そんなわけで水島さんが手がけた2002年「ヤキニクロード」。おそらく20数年のクレしん映画史上、最も異色な作品になった。最も「ギャグだけ」を押して、さらにそのギャグが最も光っている作品なのだ。
実際は脚本をこの年まで原さんも手がけているから、原さんテイストも入っている。けれど、それでもギャグに限って言えばずば抜けたものがある。どちらかと言えば大人向けの、やや高度な(シュールリアリズム的な)ギャグや、あるいはシモなネタが多いから、今我々のようなオトナが見て最も満足できる作品かもしれない。

水島さんの作品に特徴的なのは、教科書的なギャグである。
どんな作品にもありがちな展開と笑いの持っていきかた。いわゆるコントやドラマで「ありがち」な展開が、クレしんという素材に富んだ世界を最大限に活かしてクリティカルにヒットする。普遍的なギャグはだから逆に言えばわかりやすいネタだし、一方でコアなファンだけがニヤニヤできるようなネタも仕込まれている。ほんと細かいシーンを一つ一つ「ここはね!」と解説したいくらいだけど、きりがないのでやめよう。

まあ、そんなギャグ一辺倒といっても過言ではなかったヤキニクロード。
その翌年に公開されたのが、水島さんの最後の作品となった「カスカベボーイズ」なのですよ。

これはまあ、びっくりするほどシリアスになった。
まず、風間くんがしんのすけを腹パンする。別のシーンでは、みさえとしんのすけがムチで傷めつけられる。他にも重要な人物が身体を蹴られたり線路で転がったり……正直、ファンとして見ていてツライシーンである。
そこまでしてこの映画で描いているのは、すべてクライマックスでのどんでん返しのためだ。風間くんは崩壊した友情の復活を見せるために序盤で暴力をしたし、みさえやしんのすけが傷めつけられたのも、最後に悪役を倒し世界を救うときの、映画的な「壮大なオチ」を見せるためだ。
こんなに残酷な描写をしても許されるほど、カスカベボーイズは実に緻密にストーリーがねられている。見返すたび新しい解釈が見つかるし、張り巡らされた伏線がすべて回収されているクライマックスでは、演劇的なカタルシスを惹起する快感がある。

先ほど、水島さんの映画は教科書的である、といった。それは、シリアスな映画でも同じだった。
つまり、カスカベボーイズは、まさに「映画的」と言ってもいいような、壮大かつコンパクトなストーリーの作品なのだ。
異世界に紛れ込んで、異世界の仕組みを様々な登場人物と推理して、解決する……その異世界への入り方も「寂れた映画館で、荒野の風景を見ていたら、いつの間にかワープしていた」というもの。これだけでもものすっごくワクワクする展開じゃないですか!!

メインテーマはタイトルにもあるように、かすかべ防衛隊の友情。それと同等に重要に語られているのが、しんのすけのマジな恋なのである。
しんのすけにななこおねいさんという女子大生がいることは周知の通りである。だがこの作品では、「ストライクゾーンは女子高生以上」と言ったしんのすけが、女子中学生のつばきちゃんに恋をするのだ。
つばきちゃんはつばきちゃんですっげえちっちゃい子に面倒見がいい女の子。ビジュアルもたぶんトータルで一番かわいい。だから俺もしんのすけに感情移入して、そんなつばきちゃんが好きになる。だから俺年上好きなんかな?
つばきちゃんの声優は、なんか秒速5センチメートルのヒロインを舌っ足らずにした感じで、声優も若手の女優で演技が上手なわけではないけれど、だからこそ、五歳児が守ってあげたいと思っちゃうような、繊細な儚さがかいま見えるのだ。

子供の頃の僕は、この作品を映画館に見に行ったあと、親に
「つばきちゃんはシロやったんやろな」
と、大人な解釈を垂れられた記憶がある。

僕はその解釈を十年近く信じてきたし、確かにそうであれば納得の行く演出であったと感じていた。

簡単に説明すると、シロはしんのすけの愛する飼い犬。映画では必ず「野原家の一員」として行動する。声優は風間くんと同じ人ね。
そんな野原家の一員であるシロは、「カスカベボーイズ」の本編でほとんど登場しないのである。
シロ以外の野原一家は映画の世界に入って大変な思いをするけれど、シロは家で留守番しているだけ。
そんなシロは物語の最後の最後、映画館に戻ってこれた時にしんのすけのもとにやってきて、ひどく喜んで飛びつくのだ。
ここでシロは非日常から日常へ舞い戻った記号という役割を持っており、現実にこれほど待ちわびていてくれた存在がいるのだ、と認識させるのがこのシーンの役目であったろう。
だがそこで、僕の親の解釈としては、最後のシロの喜びようは、実はシロは映画の世界に入りこんでつばきちゃんとなって、言葉がしゃべれるようになって、大好きなしんちゃんを助ける役目を果たしていたのだ。でも現実世界でイヌのシロは話せないから、こうやって大冒険をしたしんのすけに飛びつくしかできないのだ、というものである。

実際、再開した時にシロは涙を流していた。犬なのに!
でも……シロは♂なのである。
映画の世界に入って、仮に人間になったとしても(ジャスティスシティでは馬以外に動物はいないから可能性は否定できない)、だとしても、性別が転換されることはなかろう。
というわけで、今自分が大人になってから再度考えたが、やはり当時の親の解釈に僕は否定的である。
(にしてもシロの喜びようが不自然なほどだったから、完全には棄却できない説ではあると感じている)

最後に、この映画で一番強調したいのは、しんのすけの主人公性の回帰である。
しんのすけの主人公性については、以前ヘンダーランドについての記事で力説した。
そんな「しんのすけが主人公」的な図式が、「カスカベボーイズ」で復活できた、と思うのである。

ヘンダーランドからカスカベボーイズまでは、つまり原政権下では、主人公はしんのすけではなかった。
原政権下の作品は歴史上に残る名作ばかりだけど、主人公は主人公のしんのすけではなかったのだ。
つまり、野原家が主人公だった。
言い換えると、しんのすけがメインに描かれる必要はなかったかもしれない作品だった、ということだ。
もちろんいずれの作品も、しんのすけという子どもと大人(というか、観客の生き写し)が同時に投影された人物なしでは、ここまで名作になりえなかった作品ではある。
が、しんのすけという主人公が能動的に行動し、同時にしんのすけが成長し、物語を進めてゆく、という展開の作品は、ヘンダーランド以降ではカスカベボーイズしかないと思うのだ。

このあたりはクレヨンしんちゃん評論家の間でも意見が分かれているし、必ずしも共感してもらえるとは思っていない。
だが、現時点での僕の解釈としては、そういうものである。

物語のドライビング・フォースとなり得る存在が主人公だとすれば、「カスカベボーイズ」の主人公はしんのすけ以外にありえないのである。

このように「カスカベボーイズ」は、スタッフ陣の一新という構造的な意味でも、しんのすけが主人公でありえた最後の作品であったという意味でも、重要な意味を持つ作品であったのだと、僕は考える。